Youright的な見解

あくまでも私的な見解である

民主主義の欠陥と次世代の民主主義 (悪法中の悪法である供託金制度とインターネット選挙運動)

 本日12月14日は、衆議院の総選挙である。

 現時点では開票結果は出ていないが、誰もが予想している通り、恐らく自・公の快勝に終わるだろう。いずれにせよ選挙は終わり、あとは民主主義の判断を待つしかない。

 

 民主主義とは、本来、多数派が少数派を抹殺する制度の事である。

 このシステムは少数派から、しばしば批判の的となるが、古代ギリシアで民主主義が出現して以来、その歴史は常に少数意見が抹殺されるものであった。それでもなお、多数決が民主主義の原則であり続ける所以は、誰もがこの制度に参加できる利便性を持っている事にある。特に近代から民主主義は多くの国で、民衆が性別・信条・教育・収入に関わらず、国政などの決議に参加できるまで成長し、今では、これらの社会で多数決に疑いを持つ者は、ごく限られた少数でしかないだろう。

 

 私は選挙の度に思うことがある。それは、それぞれの候補者たちは既に選ばれた人材であり、我々は既に選ばれた人材からさらに選んでいるに過ぎないという事だ。

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民主政の問題点

 民主主義・民主政において、主権である民衆が多数決制度に参加する権利は、いわゆる参政権(あるいは、公民権)と呼ばれ、これを大きく分類すると「選択する権利」「選択される権利」の2種類に分けられる。「選択する権利」とは、我々にとって最も身近な選挙権や国民投票権・罷免権などが相当し、もう一方の「選択される権利」には、一般には馴染みが薄い「被選挙権」が相当する。一応、被選挙権を説明すると、選挙で投票される権利・つまり選挙に立候補し政治家になれる権利である。

 民衆は、これらの「選ぶ権利」と「選ばれる権利」をセットで有する事で、初めて主権、つまり参政権を得ているわけであり、健全な民主主義であれば、民衆の有する参政権は双方の権利が平等でなければならない。要は、「誰もが政治家を選ぶことができ、誰もが政治家になれる(選挙を通じて)これが、本来の健全な民主主義における参政権であるだろう。

 だが、現在の民主主義には、ここに重大な欠陥が置かれている。

 それは「民衆は、選ぶ権利は平等に有していても、選ばれる権利は平等ではない」という点だ。

 そして残念ではあるが、これが最も不平等である国が「日本」なのである。

 

悪法中の悪法である日本の供託金制度

 日本において、政治家になるには選挙に立候補する以前に、まず高いハードルを越えなければならない。

 それが、供託金制度である。

 私は個人的に、日本の数ある法の中でも「供託金制度は悪法中の悪法である」と思っており、同時に「供託金制度は重大な人権侵害であり国民主権を脅かす存在である」と危惧している。

 

 供託金制度とは、被選挙人が国に対しお金を支払う制度で、現在、多くの国で取り入れられているシステムである。支払った金額は国によって没収される事もあれば、ある一定の投票数を獲得すれば返金される場合もあり、ルールや支払う金額も様々である。

 ただ、世界中に供託金制度は数あれど、私が日本の同制度を悪法中の悪法と非難するのは、「日本の供託金制度は、他に類を見ない程、高額である」からだ。

 次の表は各国の供託金のデータである。

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 上記の表を見て分かる通り、日本は断トツ1位の300万円で、2位の韓国の倍である。欧州やイギリス連邦圏は金額が低く設定されており、アメリカ・フランス・ドイツ・イタリアでは、供託金制度自体が設けられていない。フランスでは上院約4千円・下院約2万円の供託金が批判の対象となり、1995年に廃止となっている。

 <そもそも、供託金制度の意義とは?>

 元々、供託金の制度はイギリス発祥との説があり、選挙における売名行為や選挙妨害を防ぐ為に、立候補者の乱立を制限する目的で設けられたとされている。例えば供託金制度のないアメリカの選挙では、「思いで作りの為に立候補してみた」などと発言する、迷惑でしかないと思われる候補者達を垣間見る事ができる。本来は、このような事態への予防措置が供託金制度であり、「政治家になりたいのなら、覚悟を示すべき(=お金を用意する)」との考えから設けられた制度というわけだ。

 私自身、この制度の意義は認めるところがあり、「覚悟=お金」もある程度は致し方ない気もするが、「供託金の金額が高いければ、その分覚悟も大きい」という理屈は、やはり疑問を感じざるを得ない。

<日本人にとっての300万円とは?>

 2013年の日本人の平均手取り年収は約350万円程度である。

 当然、平均値である以上は、350万円に満たない者が最低でも半数は存在する事になり、実際には半数よりもかなり上回って存在しているのが現状であるだろう。

 多くの日本人にとって、供託金の300万円とは年収以上の金額と言うわけである。

 

 仮に、年収が平均に満たない低所得者が立候補の為に、300万円を必死に貯めるか、または、借金して工面できたとする。しかし国政選挙の選挙活動には、莫大な資金が掛かり、大きな政党の候補者であれば最低でも1000万円以上を費やしているのだ。もし知名度のある候補者ならば、お金を掛けずとも選挙活動をすることが出来るが、多くの低所得者にそのような者は、まずいないだろう。当然、供託金を収めて一文無しになった候補者に、まともな選挙活動を行えるはずがない。 供託金制度がなければ、300万円を選挙活動費にあてがうことで、少しはマシな運動も出来るだろうが、現行の法令はそれを許さない。

 つまり日本の国政選挙においては、初めから「持たざる候補者」が「持てる候補者」に勝つ要素がゼロに等しいのである。

 

 低所得者も、当たり前だが職を持っているだろうし、家族もいるだろう。

 そのような者達が、年収以上の供託金を払い選挙に出るという行為は、財産を捨て・仕事を捨て・家族を犠牲にする、まさに人生を賭ける意味を持っている。当然、政治家になるなら、それくらいの覚悟は必要であるだろう。

 だが、「持てる者」が「持たざる者」と同じ覚悟を背負っているか?

 持てる者にとって、300万円とはポケットマネーに過ぎないとしたら?

 

 結局、日本の「お金=覚悟」という供託金制度は、持たざる者を初めから差別し、また、けん制する目的の為に存在しているのである。

 この供託金制度こそが、世襲議員や財界議員を生む温床であり、今日の日本において、庶民目線の政治が行われない原因となっているのだ。

 

 このように、参政権「持てる者」と「持たざる者」に格差がある社会を、果たして本当に民主主義国家と呼べるのだろうか?

 

なぜ日本の供託金は高いのか?

 とは言うものの、持てる者が支配する社会は、世の常であり世界の常識である。

 実際に供託金制度があろうがなかろうが、それが変わる事は無い。

 だが問題は、この「持たざる者」を差別する制度を「持てる者」が作ったという点だ。

 

 日本国憲法で、議院及び選挙人の資格を規定した条文である第44条には、「人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。」と書かれている。

 ここだけを見ると供託金制度が違憲であるのは間違いないが、上記の文は後半部分であり前半には「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。」と書かれているのだ。これにより、過去における「供託金制度は違憲である」とのいくつかの訴えは全て棄却されてしまっている。

 

 日本が供託金制度を取り入れた経緯は、戦前に共産主義勢力を抑制する為であり、戦後になってもこの思想は受け継がれた事に由来する。つまり、元々、供託金制度とは、日本の民主主義を守り国民主権を維持する大義の為に作られたのである。

 しかし前回も書いたが、体制と言うものはいつか腐敗してしまう。

 崇高な目的の為に作られた制度も、時が経てば腐敗するわけで、歴史上多くの権力者たちがそうであったように、一度権力を握った者達は、かつての大義を忘れ、ひたすら権力に固執するようになったのだ。

 

 55年体制と呼ばれる戦後から1994年の自民党敗退までの間、供託金の金額は世間の物価を遥かに凌駕し高騰し続けた。バブル後、日本はデフレによって、価格は下落し所得も下がったが、世の流れに対して現在に至るまで供託金の金額が下がった事は無い。

 55年体制は、供託金の金額も高騰したが、同時に長期に渡り政局が安定していた。これは、どちらがニワトリでどちらがタマゴか分からないが、政局が安定しているという事は、各党が無難に議席を獲得できる事であり、また供託金を没収される可能性は低いという事である。つまり、政局が安定していればこそ、供託金を高額に設定できるのだ。逆に、供託金が高額であれば新興勢力の台頭を防げ、政局が安定するという見方もできるだろう。

 何れにせよ、権力を手にした者達がその保身の為に作った制度であることに間違いはない。そして驚いたことに、今まで与野党ともに(共産党でさえも)供託金制度に対し、法改正を求めた実績は皆無に等しいのである。

 結局は、権力自体に党派は関係が無いのだ。

 

次世代の民主主義 

 冒頭で述べた通り、民主主義とは多数派が少数派を抹殺する事である。

 しかし、多くの民主主義において、実際、民衆が平等に有しているのは「選ぶ権利」だけである。民衆とは、あらゆる事象を選択さえ出来れば、主権はあくまでも民衆側にあり、「民主主義は公平に、且つ健全に保たれている」と信じて疑わないものだ。しかしながら、「選ぶ」事象の前には必ず選択肢が必要になる。ではその選択肢はどこから来るのか?を辿れば、実は限られた一部の「選ばれる権利」を持つ者達によって作られているに過ぎないのである。

 つまり民主主義とは、実際は一部の少数派が与えた選択肢を多数で選んでいるだけであり、少数派が多数派を支配する制度なのである。 

 

 だが、これが過去の話になる日も近いかもしれない。

<インターネット選挙運動は、歴史的事件である>

 2013年4月19日の改正公職選挙法によって、選挙時におけるインターネット選挙運動が可能となった。

 これは、日本の公職選挙の大革命といっても過言ではないだろう。

 インターネットによる選挙活動の利便性は殆んど費用が掛からない点にある。前の項で述べたように、今までは莫大な費用を掛けて選挙活動を行っていた。しかし、一度に多くの者に大量の情報を発信できるネットであれば、費用をかけて町中を宣伝カーで徘徊する必要もなく、ポスターを大量にする必要もない。最低でも通信費だけで済むのである。

 ネットの普及率は今でも上がり続けている。

 近年では、携帯電話がパソコンと同等の機能を持ち、その利便性は留まる事を知らない。我々が遠く離れた家族や親友との距離が縮まったように、政治家も有権者との距離が縮まったのだ。それは、国民がより身近に政治に参加できるようになった事を意味している。

 つまり、「持たざる者」と「持てる者」の参政権の格差はインターネットの普及でグンと縮まったのだ。

 

 実は、このインターネット選挙運動を一番効率よく利用しているのは、自民党であり、もっと言えば安倍首相であるだろう。安倍首相は、ネット上の保守層や右翼主義者を上手く取り込み、取り込まれた者達は「ネット右翼」と呼ばれ、次々と拡散し活動を行った。かつて朝日新聞は反安倍の一番槍であったが、ネット右翼が過去の記事への反論に火を付け、遂には今年8月に慰安婦報道の捏造を認め、その地位衰退させてしまった。

 このように既成メディアや古い思考の権力者達は、インターネットをいまだに侮っているが、実際は現在においては膨大な力を持っており、その地位をとって代わるところまで来ているのである。

 最後に・・・

 話を供託金の話に戻す

 しかしながら、供託金制度がなくなったわけではない。やはり、低所得者が政治家を目指す上で、300万円の壁は大きい。

 だが、政治家になる資格がある者と無い者の線引きは必要であるだろう。政治家とは国政を担う職であり、国政とは国民の生活を守る事にある。政治家になるには、それ相応の覚悟がなくてはならない。しかし、その覚悟がお金であれば、「持てる者」が「持たざる者」を差別し、「持てる者」に都合のよい政治が生まれてしまう。

 

 民主主義の選挙が厄介な所は、「立候補者した者が必ず当選し、立候補しない者は決して当選しない」所である。

 例えば、一つの選挙区があったとする。その選挙区の候補者全員は「持てる者」で、有権者達は「持たざる者」である。有権者の求める候補者は、本来、同じ「持たざる者」の中にいるのだが、財産を持たざる者は選挙に出ることは出来ない。結局、有権者の選択肢は、意にそぐわなくても「持てる候補者達」しかなく、選挙が行われる以上は票があろうが無かろうが、持てる候補者達から誰かしら選ばれるのである。結果、「持たざる有権者」が求める政治は行われることはないのだ。

 

 そう考えると、やはり日本の供託金制度には問題があり、日本の民主主義自体に問題があると言わざるを得ない。

 だが、前回も述べた通り、国民はルールをいつでも変える事は出来るのである。

 今まで当たり前のようにまかり通っていた理不尽な制度は、インターネットの普及により、次々と明るみに出てきつつある。

 インターネット選挙運動は去年始まったばかりだ。

 次世代の民主主義とは、本来の健全な民主主義であり、「おかしい」を、「おかしい」と気付く有権者が増え、それがいつの日か「おかしくない」に変わった時から始まるのである。

 おそらく、その日は近いだろう。

 

 

 因みに、アメリカやフランスの選挙では、供託金の代わりにある一定の署名を集める事で、立候補を認める制度を採用している。

 私はこの制度は良いと思う。