Youright的な見解

あくまでも私的な見解である

<特定秘密保護法施行> 会議室にいる国民 と 現場にいる政府

 今月10日、特定秘密保護法が施行された。これにより、我が国においての特定秘密の漏えいは最高懲役10年の厳罰が科され、秘密を知ろうとした側には最高懲役5年が科されることになる。 

 この法律の施行期限は総選挙の前日である今月の13日であった。安倍首相は自民党に不利に働く法律を、総選挙のどさくさに紛れて施行すべく、解散のタイミングを見計らったと見るべきだろう。事実、世間の自民党への批判はうやむやになり、施行から一夜明けた選挙前世論調査でも、自・公の優勢は変わる事はなかった。

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知る権利の意味

 特定秘密保護法について議論する上で、欠かせないキーワードは「知る権利」ではないだろうか?事実この法律は、国民の「知る権利」を侵害していると、あらゆる場において反対され、それは施行後も現在進行形で続いている。

 だが、本当の問題は「国民の『知る権利』の侵害」ではなく、実は「国民が『知る権利』を明確に有していない」点であるだろう。

 現に、日本国憲法には「知る権利」が明記されている条文は何処にも存在していない。

 

 元々、「知る権利」とは、日本国憲法第21条による「表現の自由」の解釈の一つである。 表現の自由は、本来、表現する側への権利であるが、表現自体は受け取る相手がいなければ成立しないわけであり、表現する側に権利があるならば、表現を受け取る側にも権利があるはずで、この受け取る側の権利として派生したものが「知る権利」というわけである。つまり、「表現の自由」が存在するならば「知る権利」も同時に存在するはずであるという解釈であり、「知る権利」とは憲法上の単なる付属品にしか過ぎないわけだ。

 国民が明確に有していない権利であれば、最悪の場合、解釈しだいでは無視することも可能となるわけで、不明確であるが故に「特定秘密保護法は国民の知る権利を侵害する違憲な法である」とは言い難いのである。

 

 しかし、上記で述べた「知る権利」とは「表現の自由」に焦点を当て解釈した場合の権利であり、本来の「国民の知る権利」は、もっと重要な要素にスポットを当てて考慮しなければならないだろう。

 

別の視点から見る「知る権利」

 多くの企業が企業秘密の管理を徹底して行っている理由は、会社の利益を守る為であり社員の生活を守る為である。これを国家レベルで行ったものが特定秘密保護法であり、会社=国家で社員=国民となるわけだ。

 もし企業において、社員達が会社の命運を握るような重大機密事項を、「知る権利」を行使し開示を求められるか?と言えば、答えは当然NOである。

 それは、そもそも「知る権利」とは、「知りたいことを知れる権利」とは違うからだ。

 知る権利とは、ある決定を下す立場にいる者が、その判断材料としての情報を知る権利であり、決定権の無い者に知る権利が認められることはない。つまり、企業においての決定権は経営者にあり、社員達には無いわけで、この場合の社員側に知る権利は認められないのである。

 では、これが日本国という国家レベルの話になればどうであろうか?

 答えは、YESとなるだろう。

 なぜならば、日本という会社の経営者は国民であるからだ。

 国民主権の定義とは、国民が国政の最高決定権を有している事を指す。当然ながら、決定を下すには元になる情報が必要不可欠であり、国民には判断材料となる情報を「知る権利」があるのだ。

 したがって、「知る権利」は決して表現の自由から派生した権利ではなく、「『知る権利』とは国民主権に由来する、国民固有の権利である」と考えるべきなのである。

 

国民主権国家から行政国家へ

 今回の特定秘密保護法での一番の問題点は、やはり、行政(政府)主導で行われる事にあるだろう。特に問題となっているが、秘密事項を監査する3つのチェック機関が全て行政機関に存在するという点だ。

 日本国憲法第41条には、「国会は、国権の最高機関である」と明記されている。これは、主権者である国民の意思を直接反映する機関が国会である事に由来するからだ。一方で、行政機関とは、国民に選挙によって選ばれた機関ではない。我が国は議院内閣制をとっており、内閣は間接的には国民の代弁者ではあるが、あくまでも内閣は行政機関であり、国民の声を直接反映する立法機関とは言えない。

 

 「国民のすべてが国家の存亡に関わる機密事項を知る権利がある」とは、非現実的であり、その為に、民主主義では選挙が行われ国民が議員を選出する間接民主主義が執り行われる。したがって、国民の意思は国会のみに存在している事になるわけだが、特定秘密保護法には、ここに一切のチェック機能が無い。

 つまり、主権が国民にある日本では、憲法上、国会(国民)>政府でなければならないはずが、特定秘密保護法の下では、政府>国会という構図が出来上がってしまったのである。

 これは、国民の主権を脅かす重大な憲法違反である、と同時に、日本は行政国家への領域に足を踏み入れてしまった事を意味するのだ。

 

会議室にいる国民と現場にいる政府

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 民主主義において、国政をゲームに例えたら、ルールを決めるのが国民で、実際に現場で動くプレイヤーが政府となるだろう。

 この際のルール決めは、現場から遠く離れた会議室で行われる。

 会議とは少人数で行う事に有効性があり、人数が多ければ多いほど混乱するものである。さらに、思考や信条がバラバラである者達が集まれば、それだけ多種多様な意見が飛び交い、ますます混乱するだろう。要は、これが会議室にいる国民というわけである。

 しかしながら、とある映画のワンフレーズのように、事件は会議室ではなく現場で起こっている。国民の会議が混乱し機能を果たせない状況であれば、それだけ現場側も困惑するわけで、事態の解決は困難にならざるを得ない。であるならば、初めから現場側に決定権を与え行動させた方が、事態を解決する効率が上がるというわけだ。

 これこそが政治の仕組みであり、外交や国防といったゲームはプレイヤーである政府の現場判断によって、日々執り行われているのである。

 

 実際に私は、「特定秘密保護法は政府が国民から情報を隠ぺいする為に作った悪法」であるとは、今の段階では思っていない。それは、この法案が出された経緯が、日本の情報管理があまりにもズサンであり、これにより機密は流出し・技術は盗まれ・国防も危うく、国民の生命や財産が危険に晒されていたからである。

 これは被害妄想などではなく、現在、我が国には確実に危機が迫っている。

 その大きな要因は、やはり中国の台頭であるだろう。

 国政というゲームにおいて、現場から遠く離れた会議室にいる国民は、その迫りくる脅威に対しては鈍感であり、なかなか気づく事は出来ない。もっとも、気付いた時には既に手遅れである。また会議とは情報が多ければ多いほど混乱をきたすわけで、故に、不用意な情報の流出は国民の混乱を招いてしまう。つまり現場にいる政府が、会議室にいる国民の不安や混乱を招かぬように情報を統制する必要があり、それが今回の特定秘密保護法というわけだ。

 特定秘密保護法を政府主導で運用する意義とは、国民の生命や財産を守る為の情報管理として、現時点では、最も有効的な手段であるからだろう。と私は思う。

 

体制は永遠ではない 

 しかし、残念ながら、体制と言うのはいつかは腐敗するものである。

 これは、歴史が物語っており、崇高な目的で作られた制度も時が経てば腐敗し、本来の目的を見失ってしまうのだ。

 政府は現時点では、国民が「知るべき情報」と「知る必要のない情報」を厳格に線引きしているかもしれない。だが、やがては多くの方が指摘されているように、第3者機関(行政以外)のチェックなしには、政府の都合次第で解釈が拡大され線引きが曖昧になる恐れは十分に考えられる。

 

 国政というゲームの厄介な所は、「プレイヤー(政府)の下した判断の責任は、会議室にいる者(国民)にある」という点である。

 国民は決定権を委ねた以上は政府を信用せねばならず、本来の民主政での国民と政府の在り方とは、お互いの信頼関係が無ければ成立しないものであるだろう。

 

 だが、古今東西、政府という存在は国民を信用しようとしない機関なのである。

 何故ならば「政府は、国民をとてつもなく無知で愚かな馬鹿者であると定義づけしている」からだ。彼らの言い分は常に「我々(政府)は国政という大義の為に働き、それは国民には理解できるはずもない」であり、大義を重んじていれさえすれば良いが、いつしかそれが傲慢にすり替わってしまうのである。

 例えば、かつて政府の原発運営は、原発を推進する側とチェック機関が同じ省に存在していた。同じ省内で長期に渡り馴れ合った関係が、3.11時の福島第一原発事故での、被害拡大を招いた原因となったのである。

 この時、国民は多くの物を失って、初めて「おかしい」と気付いたのだ。

 

 けれども、「おかしい」は手遅れになる前に正すことは出来る。

 国会とは、我々から選ばれた代表がルール(法律)を作り、または変更する会議の場であるわけで、つまり民主主義において、国民はゲームのプレイヤーにはなる事は出来ないが、ゲームのルールを作る事は出来るのである。

 

 だが、特定秘密保護法は、そのゲーム内容が分からない事に問題があるのだ。