本日8月15日、日本は69回目の敗戦(終戦)記念日となった。
戦争体験者は年々減少しており、生の声を聴く事は難しくなってきている。
来年、終戦70周年という節目を迎えるのわけだが、近頃、戦後に対する国民の思いが徐々に変化してきていると思う。
あえていうならば、国が右傾化していると感じるのだ。
その原因の1つとなっているのが、日本人の歴史認識の変化だと思われる。
「8月5日の朝日新聞による従軍慰安婦報道の訂正記事」は、その象徴とも言えるのではないだろうか?
捏造された慰安婦報道
朝日新聞は1982年から従軍慰安婦の報道を度々しており、1991年には大々的に特集を組んで報じた。これが原因となり、同じ年に元慰安婦を名乗る韓国人女性達が日本政府へ賠償を求める運動が始まる。
ここから『慰安婦の強制』というものが、日韓で認識され世間が騒ぎ出したのだった。現に韓国側は、91年以前に『慰安婦の強制』について日本に抗議を行った事はなく、そもそも、そんな話自体が韓国には無かったのである。
朝日は翌92年には「慰安婦の強制、軍関与の証拠見つかる」等の見出しで新たな報道をするも、記事の中身は信憑性に乏しいものであった。ここまでは、韓国側は半信半疑であったと見える。
だがその直後に、当時の宮澤首相は日韓首脳会談の際、ろくな調査もせず、ただ韓国側に言われるまま謝罪をしてしまう。そして、日本政府として事態の究明を約束したのだ。
そこで1993年に『河野談話』が発表され、日本政府は当時、慰安婦の強制に加担したとの見解を発表する。これにより、以降日本は性奴隷国家の道を歩んでいく事になる。
しかし、1995年に朝日新聞の記事の元になった『吉田清治の証言』が、本人自ら偽証であったと告白。ここで、朝日の記事は大誤報であった事実が発覚するのである。
だが時すでに遅く、外交問題にまで発展した勢いは、もはやブレーキをかけることはできなかった。中学・高校の教科書には「従軍慰安婦」の記述が載せられるようになり、元慰安婦の為の基金が設立される等・・・さらに加速を続け、ついには慰安婦像なる物が世界中に建造されてしまうのだ。
そして、誤報が発覚してから20年近く経った今年、朝日新聞は初めて記事を訂正したのである。しかし、決して謝罪をする事はなかった。
国内第2位の発行部数を誇る朝日新聞は、100年以上の歴史を持つ新聞社であり、海外からは日本を代表するクオリティペーパーの位置づけである。
それ故に、国内外に与えた影響は大きかった。
現に91年当時、私は歴史の授業中で、強制された慰安婦の話を先生から聞かされたものである。(今ではその先生は極左だったのだろうと思うが・・・)
教科書に載せられたのは95年~05年までだが、その間の学生達はこの問題を事実として学んでしまっているわけであり、この罪は非常に重い。
発端は朝日だが・・・
そもそも慰安婦の強制連行というものは、誰がどこでどんなに調査をしても、証拠は一切発見されなかったのだ。唯一の証拠とされたのは吉田清治の証言だけであり、のちにそれは偽証であったと発覚する。
この世紀のガセネタが、たった1社の新聞記事からグローバルスタンダードにまで発展してしまったのだ。
しかし朝日新聞がだけが悪いのか?と言うと私はそうは思わない。なぜなら、当時のメディアは「朝日に遅れるな」とこの問題に勢いをつけるべく積極的に報じていたからである。
政府もこれに同調するように中途半端な見解を発表し、外交においても謝罪を続けるなど問題をさらに悪化させた。
そして95年に吉田清治の偽証が発覚すると、今度はこの件を触れてはならないタブーとし、政府もメディアも公の場から抹殺したのだ。
この件に触れる者は許されず、最近では大阪の橋下市長がこの件に触れた際、各メディアから袋叩きにあったのは記憶に新しいだろう。
この慰安婦問題を否定する意見は、公からは抹殺されたが消えたわけではなかった。産経新聞や地方メディアなど一部では報道され続け、近年のインターネットの普及と共に爆発的に広がり、一部のネット右翼等からは朝日の記者や社員への個人糾弾が始まるなど、やがて歯止めが効かなくなって行く。(実際に、朝日新聞は訂正に至った経緯の説明で、インターネットで反論が加熱した為と掲載している。)
一方国外においては、告口外交や国連決議・世界中で広がる慰安婦像の設置など、事態の悪化はますます進み、もはや修正不可能な状態になっていく。
こうした中、責任を負えなくなった朝日新聞はようやく訂正記事に至ったのである。
しかし、もうすべて遅すぎた。
一番の被害者
この訂正報道後、タブーは解禁され今まで沈黙していたメディアは、手のひらを返したように、今度は被害者側となり一斉に朝日を叩きだした。
だが、一番被害を受けたのは誰でもなく、情報に操作され・または教育をされ、それを事実と信じさせられた国民である。
世界中に負い目を背負い、後ろめたさを感じてこなければならなかったのだ。
でもある日、それが真実でなかったと知ったら・・・
過去に日本が行った行為は実は悪くなかったではないか?
本当は日本がした事は正しかったのではないか?
そんな疑問を持つ者が、反作用で世に現れるのは自然な事であろう。
さらに最近の近隣諸国で加熱する反日活動を、メディアがこぞって報道する事で、その疑問はいつしか怒りに変わつつあるのではないだろうか?
こうした怒りが一部では爆発し、ヘイトスピーチのような形で民族憎悪を引き起こしていると私は思っている。
慰安婦問題だけではない。
国民が疑問を感じているのは戦後レジームが生み出した全ての物であり、我々が今日、世界から非難され自国の立場を明確に主張できない元凶がそこにある。
その元凶は元々は棚の上に積み上げられていたのだ。
その棚には、戦後から69年かけて積み上げられた荷物があった。
その荷物の持ち主は誰なのかわからなかったが、時々、棚の板が壊れそうになったら荷物が落ちないよう応急処置を施した。
それを長い間繰り返したが、とうとう棚は重みに耐えられず壊れてしまい、ついに荷物は地に落ちてしまう。
その落ちた荷物を開けて見て、初めて持ち主を知ることになった。
荷物の持ち主は今の私達だったのだ。
祖先の罪を子孫が償う必要はない!!
現在の我々が理不尽に名誉を傷つけられ、苦しんでいるのはすべて前の世代の責任である。
私は、未来へ責任転嫁してきた過去の日本人に怒りを感じずにはいられない。
しかしながら、こうも思う。
今、我々が決断したことによって、あるいは決断しなかったことによって、未来の世代が被害を受けることになったならば、それは現在の我々の責任である。
日本国は国民主権であるのだから、国が決断した一つひとつは、国民一人ひとりの決断であり、その結果の最終責任もやはり国民一人ひとりにある。
それが国民主権の真の定義なのだ。
現在この国が抱える問題は歴史認識だけではなく、安全保障・領土問題・社会保障・少子化・原発・そして憲法改正と列挙すればきりがない。
これらの課題を棚上げし未来に責任を負わせる事だけは、避けなければならないはずだ。
もうそこに棚は無いのである。