Youright的な見解

あくまでも私的な見解である

小渕氏と松島氏の辞任で、安倍首相が掲げる女性活躍推進は失敗に終わった。

 本日20日、小渕裕子氏の経産相辞任に続き、松島みどり氏が法相を辞任する事になり、異例の同日2人同時辞任となった。

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p> この立て続けの辞任劇は、安倍首相にとっては苦い過去を思い出す事になるだろう。第一次安倍内閣では、閣僚の不祥事・失言が相次ぎ計4人が交代*1となってしまったからである。

 

 第2次安倍改造内閣の目玉は女性閣僚の最多起用であり、女性活躍促進が大きなテーマであった。しかし結果として辞任した閣僚2名は女性であり、政権が掲げる「女性が活躍できる社会づくり」は2か月を待たずして事実上失敗に終わったと言えるだろう。

 

安倍首相が女性活躍促進に失敗した原因

 私は前回、安倍首相が女性活躍を推進させているのは、文章の構成上、単に女性票を獲得する為と述べさせてもらった。が、本質はそこまで単純であるとは思っていない。というのも、現在進められている女性活躍推進政策は、必ずしも女性を優遇する良い面だけではないからである。例えば「配偶者控除見直し」は、家計にとっては明らかにマイナス要素になる政策であり、主婦層からの反発は大きい。このような賛否両論な政策をも考慮すれば、安倍首相の掲げる女性活躍推進とは、女性が優遇される社会作りと平行して、女性を家庭から社会へ出す対策も同時進行で行われている事がわかる。 

 つまりは「無理やりにでも女性に社会進出してもらおう」との考えが、根底にあるわけで、最終的に行きつく先は税の確保であり、社会保障費の確保であるだろう。

 

 現在の社会保障水準を維持していけば、いずれこの国の財政が崩壊するのは誰が見ても明らかである。このような、お家事情から女性を無理やりにでも社会進出させる試みはやむを得ないだろう。私自身も女性の社会進出を促進させる取り組みには賛成である。

 しかしながら、今回安倍政権が行った女性活躍促進政策は初めから無理があり、結果も失敗となってしまった。

 その理由は簡単である。

 それは、「男性が女性の為に作った制度」だからだ・・・。

 

形式上の女性役員が生まれる可能性がある

 アベノミクスが掲げる成長戦略の一つとして、上場企業に女性取締役を最低1人は入れる事を義務付ける案が検討されている。

 現時点で、まだ法案の整備も済んでいないが、単純にこの原案のままで法律化された場合を考えてみたい。

<例:従業員1,000人の会社で女性が10人しかいない会社の場合>

 この会社の場合、女性従業員は男性の1/100しかいない為、実績や経験に関係なく女性と言うだけで取締役に就任できる事になる。

 しかし、このような状況は男女双方にとってマイナスになる事は必至であろう。この会社の評価基準では、男性は女性の100倍働いてようやく対等になれるわけで、これはあまりにも不公平であり不満が出てくる事は避けられない。

 一方、女性は男性の1/100働けば認められる事になるが、女性に対して不満を持つ男性を部下として受け持つことになる。自身に不満を持つ部下を抱えて業績が向上するはずはなく、人間関係の煩わしさから組織にも居辛くなってくるだろう。

<法をクリアする為だけに置かれる女性役員>

 女性を一方的に優遇すれば、男性からの不満を買い女性は仕事がやり辛くなる逆効果が生まれる恐れがある。やがて、その逆効果は、取締役になりたがらない女性を生み出す事になり、組織としては人材不足に悩む事態に陥る。そして最終的には、女性役員のポスト自体がネックとなり、「法令順守の為に、やむを得ず置かなくてはならないだけの厄介なポスト」でしかなくなってしまうだろう。

 そんな厄介なポストならば、法を守る為の頭数だけ揃えば良いわけで、結果として誰でも良いという事になる。上場企業で実際に権限を持つ者は株主でもあり、一般に取締役の進退などは株主に委ねられることもある。そこで選出されるのは、実際には何の権限も持たせてもらえない形だけの「お飾り女性役員」であるだろう。

 一番悪質なケースは、取締役とは名ばかりで一般従業員と変わらない仕事をさせられることである。

 なぜなら、取締役とは従業員ではないからだ。

 取締役は労働者では無い為、労働基準法が適用されない。つまり残業も休日も法的に決まりがなく、過度な労働を科せられる恐れがあるのだ。

<頑張る女性に対して冒涜的ではないか?>

 女性を男性よりも優遇する事で、優秀な女性の立場が軽んじられてしまう問題も出てくるだろう。本来は男性以上に有能な人材でも、男性から正当に評価されなくなってしまい、偏見の目で見られてしまうのである。

 一部の女性からすれば活躍できる場が増えるかも知れないが、元々頑張ってきた女性にとっては、これまでの努力をないがしろにされる事態であるだろう。実際にフェミニストの中でも、このような一方的に女性を優遇させる女性活躍推進策に否定的な見解を持つ者もいる。

 そもそも、女性を優遇させるという行為は女性にハンデを与えることである。この時点で既に男女は対等ではないわけで、男性よりも女性の方が劣っていると認めているようなものである。

 このようなハンデに甘んじて、本当に女性が活躍できるのだろうか?

 

戦って勝ち取った女性の権利

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 現在の我々の世代では考えられない事であるが、戦前までこの国には女性に参政権は無かった。女性参政権を求める運動は19世紀後半には世界規模で行われ、20世紀前半には多くの国でこれが認められるようになって来た。日本では明治初期から女性に参政権を求める運動がなされ、ごく一部では実施された。その後、戦時中にはこれらの運動は中断されることになったが、敗戦後にアメリカのG.H.Q指導の下でようやく実現に至った。

 惜しくも日本国自ら実現させた制度ではなかったが、半世紀に渡り女性達が参政権を訴え続けた事は確かであり、結局はこれらは女性が戦って勝ち取ったものであると言えるだろう。

 この参政権運動は、同時に女性の社会進出を促進させる効果をもたらせた。もともと女性が要職に就くことは大抵の国で認められていなかった。だが女性参政権運動を経たことで、彼女達は、高等教育を受け能力に準じた職業に就く権利を、世に認めさせる事に成功したのである。

 <近年の女性の戦い>

 セクシュアルハラスメント(以下:セクハラと表記)が社会問題になったのは、ごく最近の事である。現在は男性が女性に*2セクハラ発言を行えば社会的制裁を受ける事は、当たり前の世の中になっているわけだが、日本で一番初めにセクハラで裁判が行われたのは1989年の平成元年になった年である。当然それまでセクハラが無かったわけではなく、女性はセクハラされても耐えなければならない事が世の常となっていたのだった。

 日本で初めてセクハラを訴えた「晴野まゆみさん」を見る世間の目は冷ややかであったと言える。当時のメディアはこの事件を面白おかしく取り上げ、馬鹿らしい裁判として世間からは認知される事になった。彼女は世の男性からだけなく、女性たちからまでも疎まれたと言う。*3しかし、その後もフェミニスト達からの支援もあり、世の理不尽や不公平を訴え続け、遂に1992年に裁判は全面勝訴する。

 この事件は、後にセクハラに対しガイドラインが作られるきっかけとなった。つまり、現在の女性達が当たり前のように社会で活躍できるのは、過去に晴野さんのような女性が戦って権利を勝ち取ったからである。

 最近では女性の権利に対し過保護になる風潮が目立ち、一方では逆差別ではないかと思われる制度も見られてきている。例えば、通勤車両に見られる女性専用車両なんかは、私も毎日電車通勤をしている身なので、その存在に疑問を感じ、時には腹立たしい気持ちに駆られることもある。しかし、これも過去に女性が戦い勝ち取った権利の中の一つであると考えれば、納得せざるを得ないだろう。

 

 女性の権利に限らず、戦って勝ち取った物は強い。

 必ずしも「戦い=争い」とは限らないわけで、それが時には努力であったり、時には挑戦という言葉に置き換わるわけだが、このような経験を経て手に入れたものは、強固であり、それは簡単に折れたり崩れたり無くなったりするようなものではない。

 

 安倍政権によって与えられた「女性が活躍できる社会」は、もろく簡単に崩壊してしまった。

 

 しかし、これは一つのきっかけになるだろう。

 本当に女性が活躍できる社会は、女性自らでしか作れないはずである。とは言うものの、残念ながらそれは厳しく時間が掛かってしまうだろう。何故なら、この国の男性は私を含めまだ準備が出来ていないからだ。

 だが、それは女性にも同じことが言える。

 全ての女性が、自身が活躍できる国づくりへの準備をしなくてはならない。この国の現状を知り将来を考え、国民としての役割を果たさなけらばならない。

 我々が目指さなければならない社会とは、決して、一部の女性だけが活躍する社会ではないのである。

*1:実際に交代したのは5人で、一人は自殺した

*2:現在は必ずしも男性から女性と言うわけではない

*3:ただしこの晴野まゆみさんの裁判は、未だに賛否両論がある