昨日、朝日新聞の朝刊に「安倍首相がA級・BC級戦犯に向け哀悼の意を伝える書面を送った」と掲載されていた。
内容は、首相が今年の4月に和歌山県・高野山の『昭和殉難者法務死追悼碑』で行われた法要において、そのような書面を送ったというものである。
記事自体は小さかったが、それ以外の新聞には載っていなかったので朝日新聞がすっぱ抜いたのだろう。他紙は今日になって、朝刊でこの事を伝えている。
日本経済新聞にまで小さく記事が出ていた事を考慮すると、今の世の中こういった歴史認識問題は、やはり国民が関心のある内容なのだと、改めて感じた。と同時に、今回の(実際は4月の)安倍首相の行為が、近隣諸国からの新たな批判の的になるのではと、少々不安も感じている。
その際に批判の的になるのは、やはり『A級戦犯』に対しての哀悼の意だろう。
今日の外交問題の一つである日本の首相の靖国参拝は、靖国神社にA級戦犯が合祀されている事に問題点が挙げられているからだ。
だが実際問題、『A級戦犯』という言葉に対し、今の国民はどの程度の認識を持っているのだろうか?
A級戦犯=極悪非道
日本において先の大戦での戦争犯罪はA・B・Cの3つに分類され、それぞれ次のようになっていた。
- A級犯罪:平和に対する罪
- B級犯罪:通常の戦争に対する罪
- C級犯罪:人道に対する罪
ここで注意しなければならない点は、このA・B・Cはランキングではない事である。
ちょっと悪い=C級・普通に悪い=B級・極悪非道=A級というようなA>B>C理論ではなく、あくまでも罪の種類によって分類されたものだ。
これは日本だけの呼称であり、海外では単に罪名による呼称となっているのが一般的である。
しかし、A級犯罪で裁かれたA級戦犯は、当時の日本の指導者達であったことは事実であり、その結果としてA>B>Cのランク付けが成立してしまった事も、否定はできないだろう。
こうした背景が、現在多くの国民や近隣諸国が思うような『日本を戦争に導いた指導者達=A級戦犯=極悪非道』の構図を作り上げている。
私自身も、この構図を必ずしも間違いとは思っていない。
A級戦犯といわれる日本の指導者を裁いた裁判は、当時、この為に莫大な資金を使い舞台を建造し、その裁判記録もカメラ数台で撮影するという特別なものであった。
それがいわゆる東京裁判である。
東京裁判は正式名称を極東国際軍事裁判というが、ここでは親しみやすい前者の方を使わせてもらう。
この裁判は国際法に基づき公正に行うものとし、文明的な裁判とされ1964年に開廷されたのだった。
東京裁判は不当だったか?
東京裁判というものの評価は、賛否両論である。
ただ賛否両論とは、この裁判を通じて後に与えた影響が議論になるのであり、この裁判の行為が不当である事は、論者の中でも見解は一致している。
では、一体何が不当なのか?
その理由は沢山あるのだが、ここでは要約して次の点に絞りたい。
*東京裁判の条件は、同じ敗戦国であったドイツにて行われた『ニュルンベルク裁判』とほぼ同様である。本来は、日本とドイツでは戦争行為に至った経緯も、その行為も全く次元が違うのであるが、ここでは以降、特記の無い限り「東京裁判の条件=ニュルンベルク裁判の条件」とし、『ニュルンベルク裁判』の呼称は省略する。
(1) A級戦犯の「平和に対する罪」は、事後法であった
事後法で罪を裁くというのは、例えば、煙草を吸ったら逮捕するという法を新たに作り、その法で5年前に煙草を吸っていた人を逮捕する行為にあたる。
裁判という行為は、当然ながら厳格な法に基づいて行われなければならず、このような暴挙は決して許されないのが世界での常識である。
先に述べた通り、東京裁判は国際法に基づき公正に行うと銘打って開廷されたのである。
しかしながら、もともとA級戦犯の罪(A級犯罪)とされる『平和に対する罪』は、第2次世界大戦以前には存在していなかった物であり、後から作られた罪であった。(C級犯罪である『人道に対する罪』も同様である)
ただ、よく東京裁判直前に作られた罪であると誇張する人がいるが、それは間違いであり、これらが施行されたのは1945年8月8日である。
結局は、日本が降伏する直前には既に制定されていた罪ではあったが、起訴の内容は1931年の満州事変までさかのぼるわけであり、あきらかに事後法の行使である事に変わりはない。
このような不当な行為は国際法に沿っても不当であることは明白だが、しかし東京裁判においてはそれが堂々とできたのである。
(2) 戦勝国側が一方的に裁きを与える内容であった
例えば、AさんとBさんが喧嘩をして裁判にまで発展したとする。もしも、それを裁く裁判官がAさんの父親だったとしたら、Bさんにとって一方的で不利な展開となってしまい、これを公平な裁判とは決して言わない。
公平な裁判とは、裁く者が第3者である事が原則である。当然それが国際裁判となれば、裁く者を第3国や中立国に委ねるべきであろう。
しかし、この東京裁判では国際法に基づき公平に行うと公表したにもかかわらず、裁く側に立った国は、11カ国中6カ国が戦勝国であり、3カ国はその同盟国であり、1カ国は日本が占領し被害をもたらした国であった。つまり、ほとんど戦勝国側というわけである。
さらに各国から選出された判事は、すべて戦勝国側が自分達に都合の良い人物を選び、任命した者達であった。
それを証拠に、(驚くべき事だが)国際裁判であるにも関わらず、実際に国際裁判を経験した判事はたった1人だけしかいなかったのである。
ここまで徹底して八百長の為にお膳立てがなされた裁判が、東京裁判であったのだ。
事後法ではあるが・・・
この裁判が裁判行為としては不当である事は明白である。
理由は今まで述べた通りで、「事後法による裁き」と「戦勝国による一方的な裁き」であるだろう。
特にこの「事後法による裁き」の理屈が通ってしまえば、どんなに善良で法を犯したことのない人でも、理由をつけて罪に問える事になってしまうのである。これが現在でも国内外で批判の的になっている。
しかし、後に批判される事はわかってながらも、連合国側はこのような横暴を押し進める必要があったのだ。
その必要性を考慮するには、まず、このA級戦犯の罪とされる『平和に対する罪』がどのような経緯で作られたかを理解するべきだろう。
<A級犯罪>
A級戦犯の罪である『平和に対する罪』とは「不法に戦争を起こす罪」と解釈され、対象者は主にその不法な戦争を引き起こした国の指導者となる。
ここでいう不法とは、「侵略戦争または国際条約・協定・保障に違反する戦争の計画・準備・開始および遂行、もしくはこれらの行為を達成するための共同の計画や謀議に参画した行為」と定義される。
<C級犯罪>
一方で時期同じくして作られたC級戦犯の罪である『人道に対する罪』は、「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為」と定義されている。
どちらを見てもわかるように、非常に良心的であり道徳的であり、また今見ても極めて常識的な内容である事がわかる。
この2つの罪は、1944年後半に連合国側で協議が重ねられ、1945年・日本が降伏する1週間前8月8日に施行された。1944年の後半とは、ノルマンディー上陸作戦が遂行されドイツ敗戦は、もはや時間の問題となっていた時期である。
当時のドイツがナチス指導の下、占領したヨーロッパ各地でユダヤ人に対し、人類史上最大規模の殺戮を行っていたのは、歴史上の悲劇であり今では世界中の誰もが知っている事実であるが、そこで考えてみたい。
もし、事後法で作られた2つの罪が無かったとしたら?
平和な国に理由もなく戦争を仕掛け侵略をする行為も・・・、一般人を大量虐殺するような残虐非道な行為も・・・、またそれを指揮した者も・・・、正当な罪で裁く事が出来ない世界になっていたのである。
ナチスの犠牲になった日本
そもそもは、何百万人もの人間が虐殺される事や、また虐殺を試みる者が現れるなど、第2次世界大戦前には誰も予想していなかったのである。これは、効率的に人間を殺せる大量破壊兵器が科学の進歩によって、それ以前よりも飛躍的に向上した事にあるだろう。
人間の科学技術は、ボタンを押せば相手の顔も見ず大量に人を殺せる時代まで、進んでしまっていたのだ。しかし残念ながら、科学の進歩に対して、人間の道徳心も、法も追いついていく事は出来なかったのである。
そして、やっと追いついた頃には、もう既に大量の犠牲が払われた後だったのだ。
元々この2つの罪は、ナチスドイツを裁く為に連合国が作ったものであり、事実、ニュルンベルク裁判開廷の直前に合わせて施行されている。そして、ドイツは事後法により裁かれたのだ。
しかしこの事後法による裁きは、連合国内部からも第3国からも批判を浴びた。
ドイツだけを例外的に不当な事後法で裁いてよいのか?
この不公平な図式を打開するために、日本は犠牲になってしまったのだと思われる。
日本を不当な事後法で裁くことを想定し、結果、東京裁判の前に行われたニュルンベルク裁判で、ナチスに正義が適用できたのである。
私は事後法で裁く行為は確かに不当であり、例外は許されないと思う。しかし、この歴史的な背景を考えた場合に、やむを得なかったのではないか?とも感じてしまう。
ただし、当時の日本とナチスは全く違う事だけは確かである。
日本人の名誉の為に言っておくが、東京裁判においてはこの虐殺行為に対する罪『人道に対する罪』で裁かれた戦犯は一人もいない。
勝てば官軍だが・・・
事後法の適用は「その歴史的な背景によりやむを得なし」とする見方があるのかも知れない。
しかし、それを仮に100歩譲るとしても「戦勝国の一方的な裁き」と言うのは全く別次元の話であり、これこそが真に不当な行為である。
今日、東京裁判が「連合軍による日本に対しての報復行為」であったことは、裁判冒頭で連合国側の主席検察官であるアメリカ人ジョセフ・キーナンの発言した内容をみれば分かる。
以下キーナンの冒頭陳述(ほぼ原文)
「これは普通の戦争犯罪人を裁く裁判ではなく、全世界を破滅から救う為の文明人による闘争の始まりを意味している。」
「被告(日本人)は、文明人に対し戦争をしかけたのだ」
ここで自ら文明人と名乗る彼らの文明とは、そもそも次のようなものを言っているのだ。
- アメリカ:都市部に爆撃を繰り返し、さらには核爆弾を落とし、無差別に女・年寄り・子供を虐殺する文明
- ソ連(現ロシア):中立条約という互いに干渉しない約束していたにも関わらず、日本が降伏し武装解除した途端に約束を破り、侵略を開始し多くの日本人を殺害・また強制的連行し極寒の地で過酷な労働をさせ、食べ物も与えず殺した文明
- イギリス:世界中を植民地化し、今日におけるアフリカ・中東の紛争の原因を作った文明(因みに現在のイスラエル・パレスチナ問題やシリアの内戦の元凶はイギリスである)
東京裁判において、唯一第3国の出身であり、また唯一国際裁判の経験者であるインドのパール判事は判決時にこう述べている。
「非戦闘員の生命財産の侵害が戦争犯罪となるならば、日本への原子爆弾投下を決定した者こそを裁くべきであろう」
しかし、原爆を落とし一般市民の大量虐殺を行ったアメリカが『人道に対する罪』で裁かれることはなく、武装放棄した国に条約を破り一方的に侵略したソ連が『平和に対する罪』で裁かれる事はなく、また、罪にすら問われなかったのだ。
なぜなら、戦勝国だからである。
「戦勝国による一方的な裁き」と言う行為が最も恐ろしいのは、勝てば何をしても許されるという理論にすり替わる事である。
これがまかり通れば、どんな残虐行為を行っても、正当化されてしまう危険があるのだ。
今でもアメリカ国民の6割近くが、「日本への原爆投下は正しい判断であった」と思っているのも事実であり、また、現代の戦争においても戦勝国による戦争犯罪を正当化する危険性は大いに存在している。
人類史上最も卑劣な虐殺行為も正当化されていたのである。
(9/1:記事を大きく修正しました)
その2へ続く
東京裁判について語ってみる:その2 - Youright的な見解
*1:C級犯罪の『人道に対する罪』も同様である